辞書は翻訳のコメ PR記事類語玉手箱

 鉄は産業のコメと言います。鉄がなければ産業は動きません。同様に辞書、辞典がなかったら、分野を問わず、翻訳は成り立っていきますまい。社会の営みを支える鉄が多様であるように、翻訳をなりわいとするわが机上周辺にも大小の辞典類が所狭しと並んでいます。その多くは(そう、9割近くと見ていいでしょうか)たいてい惰眠(?)をむさぼっています。一口に言って特殊、専門的であるために、出番が限られるのです。しかし、スポットライトを浴びる瞬間が稀にやってきます。オールラウンド的辞典では手に負えない困難、翻訳上の課題が唐突に浮上するからです。

 たとえ数年に一度書棚から抜き出す辞典であっても、訳者にとってはかけがえのないツール、苦楽を共にする戦友といって過言ではありません。どの辞典が頻繁に利用され、どの辞典がここぞという時に奮迅の働きをするかは翻訳者によって違うでしょう。関連する言語によって、また外国語訳か日本語への訳か、映像翻訳か産業翻訳かといった分類によっても大きく変化するはずです。

 かくして辞書たちに足を向けて寝るわけにいかない翻訳者ですが、辞典がアラジンのランプよろしく万能かというと、よほどのノーテンキ翻訳者でない限り「イエス、イエス」とは言わないでしょう。どの辞典も翻訳者の脳細胞同様不完全ですし、刻々と変化する言語上の諸相をリアルタイムに100%届けろというのも無理な相談です。ということで、「浜の真砂は尽きるとも、翻訳者の悩みは尽きまじ」と相なります。

 ところで辞典、辞書の存在理由はどの辺りにあるのでしょうか? 最大の眼目は、読者に語彙の定義、概念、説明を伝え、その使用を助けることにある、といってよいでしょう。あまりに個性的な定義、概念、説明は辞典にふさわしくありません。かといって辞典に個性がないと断じるのは相当的はずれであることにお気づきでしょうか。

映像翻訳を皮切りに日英翻訳、出版翻訳、産業翻訳とソデすり合わせてきた者の目からするなら、それぞれの辞書にそれぞれの主張がありますし、そこここに編著者の息づかいを聴くことができます。小型の辞典は得てしてお座なりな作りですが、時に底光りのする“サンショ”に出会い、はっとさせられます。情報提供を主眼とする辞書もあれば、書くための辞典もあります。

 日本の辞典作りの伝統なのでしょうか、例えば国語辞典の場合見出し語に伴って、語彙の定義、文法的意義、その語を使用した例文、その語の歴史的成り立ち、方言的言い回し、類語、反対語、時には英単語まで、華麗な盛りつけがなされています。百科事典的要素もどんどん付け加えられています。“お勉強”の道具として文句のつけようがありません。わがミズホの国の翻訳者は、至れり尽くせり、壮麗にして格調高き翻訳のコメを選り取りみどりで選ぶことができるわけです。

 しかし全く注文がないかというと、そうではありません。高踏性も結構ですが、もう少し「書く」立場からの工夫があっていいのではないでしょうか。たとえば英日翻訳の必須アイテムに類語辞典があります。ここでも利用者の使い勝手、文章作りの利便性より言語学的体系、国語学に基づく分類が優先されています。実に立派な語集団のまとめ方です。しかし頭蓋骨の裏っかわを引っかくような作業に追われる翻訳者からするなら、索引から本文に戻るやり方って何やねん!何でやねん!ということになります。受動態表現の取り上げ方がお手軽なのは何でやねん! 否定表現が邪険にされてるの何でやねん! 俗語がシカトされてるの何でやねん! 大辞典と銘打つわりに「これだ!」という類語になかなか巡り会えないの何でやねん! 値段がゲッと思うほど高いの何でやねん! 翻訳料金はどんどん下がってんねんで!(‥‥失礼。つい頭に血が上ってしまいました)

 頭に血を上らせてみても、ボヤいてみても、最善の類語辞典が天から降ってくるわけではありません。helpの訳語が「助ける」一辺倒では助かるものも助かりませんし、good machine が「良い機械」では売れるものも売れません。identityを「アイデンティティ」で押し通しては芸がなさ過ぎようというもの。思いついた輝く訳語、気のきいた言い回しをいつからメモするようになったか定かではありません。でもいつの間にか頼り甲斐のある、翻訳者のわたしに便利なCD−ROMが出現しました。

『類語玉手箱』と題するこのCD辞典は、愛憎半ばの辞書たちに向けた文章作りの修羅場からの一石、既存類語辞典にもどかしさを感じるご同輩の目線に立つプロ仕様、ボリュームとコクを自負する一書です。該サイトをちょっと覗いてみていただければ幸甚です。

(『類語玉手箱』編著者・敬白)

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