「年齢と共に生きる意味が見出しにくくなってきた」というコメント
がお二人から寄せられました。とても正直な心情の吐露であるこのよ
うなコメントを読むと、私はうれしくなります。嘘がないのです。こ
ういう思いをひたすら隠したり、他の人がそのようなことを言ってい
る時に、やたらにそれを嫌がったり攻撃したりする人がいます。私に
言わせれば、人間はみんな、強い(と自他共に思われている)人も、
弱い(と自他共に認められている)人も、頻度や程度の差こそあれ、
「生きる意味が見出しにくい」と感じているのだと思います。そして
そういう思いは、誤魔化さない方がよいと思います。そういう自分を
すんなり受け入れて、それを自分の人生の土台に据えた方が、自分と
他人に優しくなれ、人間や社会を大きく深い立場から見られると思い
ます。
「生きる意味」というものは初めからなくて、生きることそのものは
実はまったく無意味なのだという立場があります。あるいは、大きな
意味があるという立場もあります。そして、生きる意味は自分で作り
出すものだという立場もあります。
17歳のころからこういう問題に取り組んでいた私は、49歳くらいにな
って、やっと私は、この問題には悩まされなくなりました。とは言っ
ても、「生きる意味がある」つまり「この宇宙の外にある何か偉大な
ものが私たちの生きる意味を作り出している」とは思っていません。
もしかしたら、生きることには客観的かつ普遍的な意味はまるでない
かもしれないと思っています。でも、かつての私とは違って、生きる
ことにそのような意味があろうがなかろうが、私自身にとってはどう
でもいいのです。
今の私にとって重要なことは、「生きることを楽しいと感じている」
という事実です。幸いにして私は、51歳の今でも、両足で立ってい
る。それほど病院の世話にならずに生きていくことができる。ありが
たいことです。その他の点でどんな不運があろうと、私には「両足で
立てる」ということだけでも、大きな祝福です。事故のために65歳の
ときから歩くことが不自由になった身体障害者の母を見ていて、特に
そう感じます。
「生きる意味」については、今の私は、実に単純に、こう考えていま
す。そのためなら死ねる、と思えるようなものを持っていれば、その
人は生きる意味を感じている。
1年6ヶ月ほど前、私は音楽とダンスに凝り始めました。テンポの速い
アメリカのポップ音楽に合わせて、ストリートダンスみたいなものを
踊るのです。若いときからダンスは好きだったはずなのですが、「ま
ずは手に職をつけないといけない」という使命感があまりにも強く
て、人生を楽しんでいる場合ではないと思っていました。それに、か
なり悲観的な人生観や世界観を持っていましたので、人生を楽しむな
どという発想は、初めからありませんでした。若いころの私は、ただ
ひたすら勉強して仕事して、苦行することに悲壮な、捻じ曲がった喜
びを感じていました。
50歳になったときから、やっと「僕にだって人生を楽しむ権利があ
る」と思えるようになり、音楽とダンスを心から楽しむようになりま
した。おかげで、「明日、死んでも悔いはない」と文字通りに思える
恍惚の瞬間をときどき経験します。
(その2に続く)
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