翻訳学習者による自主学習組織 辻谷真一郎さん
関西の翻訳者教育、とくに医薬翻訳者の指導で真っ先に名前があがるのが多言語翻訳家の辻谷真一郎さん。「革新的な翻訳理論」という触れ込みで注目される情報量理論の提唱者としても知られている。
その辻谷さんを「招いて」の一般公開講座が名古屋で開催された。今回はトライアリストの会の「年に一度の全国大会」を兼ねるという。
トライアリストの会とは、翻訳学習者の互助会。辻谷さんが経営する営利目的の塾というわけではない。会員の研鑽の場であると同時に、仕事に直結する活動をしているという。
公開講座の初日は情報量理論の初歩である。翻訳の講義を予想していたのだが、フィールド、エネルギー量、エントロピー、名子…などなど、物理の教科書のような用語が飛びだす。
「情報伝達のエネルギー量は少ない方が良いんです」
などといわれたら、初めての人はとまどうかもしれない。少なくとも筆者はそう思ったのだが、トライアリスト会員・田中さんによると、当日の講義内容は、会員にとっては「誰もが無意識のうちに感じているごくあたり前のこと」だという。
(ただ、受講者の中には理解していない人も混じっていたようである)。
初めて参加する人は、辻谷さんの著作に目を通すなどして事前に予習をしておけば、当日の理解がよくなるだろう。
筆者は2コマほど見学する機会を得たが、情報量理論の中身については、飛び入り参加の門外漢が書くのは控えるべきなので、実際に辻谷さんの講座を受講して理解なり、評価なりをしてもらいたい。
圧倒的な女性人気
洒脱な語り口の紳士である辻谷さんには、女性ファンが多い。
今大会の参加メンバー30名のほとんどが女性で、男性はわずか2人。翻訳関係者には女性が多いとはいえ、この女性比率の圧倒的な高さも辻谷さんの女性人気を反映しているのかもしれない。(これは、筆者のジェラシーかな?)
例を挙げると、特許翻訳で著名なある女性翻訳家は、辻谷さんを賞賛し、熱烈なファンであることを公言している。有力翻訳会社の社長として半世紀にわたり辣腕を振るってきた女性経営者も、辻谷さんの活動への支援を表明している。
指導者として確かに一流なのだろうが、様々な意匠を凝らして受講者を惹きつける手腕には、翻訳教育界きってのマーケティング巧者という印象も受ける。
期待される情報量理論の完成
実は、情報量理論はまだ完成された体系ではない。辻谷さんの頭の中で、絶えず進化を続けている。著作が何点か出版されてはいるが、それはその時点での理論であり、現在のものとは別物である。
そのため、最新の理論を正確に伝えられるのは、辻谷さん本人しかいないということになる。もちろん、辻谷理論を実践し、現場で活躍しているお弟子さんは何人もいるのだが、翻訳理論や技法の類は、どうしても習得する人によって微妙に解釈や適用にずれが生じてしまう。それが問題ということではなく、各人の個性や状況に応じて現場で活かせばいいのだが、他人に伝えるとなると、わずかな差でも、大きな誤解に発展する恐れがある。
以上のような事情があるらしい。
実際、会員のひとりが、ブログで情報量理論の紹介を試みたこともあるが、辻谷さんのお眼がねにかなう内容にはならなかったという。
居酒屋的居心地の良さ
辻谷さんは、自身が創設したトライアリストの会を、「がらんどに提灯がぶら下がる居酒屋」に例える。
「間口は狭いけど、中に入ると広々としていて、暖かく、とても居心地がいい……」
そんな翻訳者・学習者の集まりがトライアリストの会だという。手塩にかけて育ててきた会に愛情があるのだ。
最高位は5段の達人
トライアリスト会員の田中さん(仮名)は、新進の医薬翻訳者として活躍中だ。
翻訳を志した当初、1年受講後に仕事の機会が与えられるという触れ込みの通信講座を受講した。だが、修了後も基準に達していないという理由で、チャンスを与えられなかった。
そんなとき、たまたまトライアリストの会を知る。翻訳雑誌で紹介されていたのがきっかけだという。
「最初は9級から始めるんです。徐々に級が進んでくると、4級くらいから仕事の紹介を受けられることもあります」
現役では最高5段の「達人」翻訳者も在籍しているらしい。
トライアリストの会は、辻谷翻訳事務所を窓口として翻訳の仕事を請け負っている。
大口の依頼を受けて、多人数で分担する場合は、もう少し下の級の人にも仕事が回ることもあるという。
受講費は、一般の翻訳学校とは逆で、進級するほど安くなるシステムになっている。
「努力して上達した人には、ご褒美をあげるという意図もあります」と辻谷さんはいう。
また、添削指導にかかる手間が上級者になるほど少なく済むという事情も反映している。
トライアリストの会の下位組織として、関東支部のソレイア、関西支部の翻友会がある。いずれも学習者による自治組織であり、会計も辻谷翻訳事務所から独立している。
トライアリストの会(辻谷翻訳事務所主宰)
┣翻友会(関西支部・会員による自治組織)
┗ソレイア(関東支部・会員による自治組織)
持ち回りで世話役が代わるためか、ソレイアや翻友会のホームページを見ても運営主体などがややわかりにくいが、決してあやしい団体ではない。主宰は辻谷翻訳事務所だが、「会費の徴収から、イベントの企画まで」会員の手で運営されている。
残念なことに、一部に、辻谷さんに心酔するあまりか、一般の翻訳学校や翻訳論書など、辻谷さん以外のものをすべて否定し、劣っているといわんばかりの過激な発言をする人もいるようで、その一部のためにネガティブなイメージを持たれることもあるようだ。それは、辻谷さんの本意ではないし、全体としては、良識のある人たちの集まりだと思う。
医薬翻訳への道
田中さんは、情報量理論を学んだことで、翻訳のスピードがあがったという。それまで、訳出作業中に思い悩んでいたことも、感覚だけに頼らず具体的な手順を踏んで解決できるようになったことが理由としてある。
トライアリストの会は医薬翻訳を専門とする学習組織なのだが、同席の会員4名ほどに訊いてみたところ、実は全員が医学・薬学に関しては全くの素人だという。
「私は医療機器がらみの仕事が多いんです。最初は難解かもしれませんが、臨床に関する分野は、興味をもって少しずつ知識を積み重ねていけば連鎖的にどんどん覚えていけます」と田中さん。
ただ、医学の専門書は高価なものが多いので、プロとして最低限必要とされる蔵書を揃えるにはかなりの出費を覚悟する必要がある。
筆者自身、医薬翻訳に携わっているわけではないのだが、患者という立場で医療現場と長く関わりがある。自分の運命は自分で決めたいという素朴な感情から、薬物や手術手技などの治療法に強い関心があり、主治医と相談し、薬の服用法を自分で選択するやり方を認めてもらっている。その背景には医療情報が容易にネット等から入手できるようになったという最近の事情がある。すべてを理解するのは難しいが、概要はつかめるし、読みこなしていくうちに理解も深まっていく。
このような経験からも臨床の知識は、興味があれば、ある程度独習が可能だという感触がある。
多忙な医師や研究者が積極的に翻訳に携わることは考えにくい。そこに、アウトソーシングとしての医薬翻訳の需要がある。
だが、さすがに基礎医学の分野は、高度な専門知識が要求されるため、専門の教育機関で学んだ人でないと手が出しにくいと考えられ、敬遠されがちである。ところが、この点についても辻谷さんの考えは違う。
「たとえば化学なら、化学式のおおよそが理解できればいいんです。難しそうな遺伝子レベルの話だって、遺伝子の基本は4つの要素で成りたっているわけで、実は単純そのものですよ」
辻谷さんは、小学生のころ、学校の図書館で、科学の専門書を読みあさる子だったという。
「小学生のボクが、物理の理論を父親に説いて聞かせたら、理解してもらえなくてね…(笑)」
すでに小学生のころから知識欲が人一倍旺盛で、普通の小学生とは違う、おませな少年だったらしい。もしかすると、特別な才能の持ち主なのかもしれない。
飛び入り参加の筆者だが、親睦会にも加えていただき、幸せなひと時を過ごすことができた。トライアリストのみなさまには、謝意を表したい。
(取材・撮影 【元】トランレーダー取材班)
翻訳の原点―プロとしての読み方、伝え方 (辻谷真一郎著)
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