生きる意味というは、死ぬことと見つけたり (その2) | 南都隆幸 email Web | 1470 | 4/8-17:52 |
記事番号1469へのコメント (その1からの続き)
17年にわたって連れ添った相手と6年前に離婚。子供もいない。そのあ と、一世一代の悲壮な片思い。詐欺師みたいな人たちからひどい仕打 ち。遊びを知らない私はひたすら勉強して仕事していたので、長年に わたってお金も貯めていた。でもそのお金もつまらないことのために 流れていった。深い孤独感とか空しさに打ちひしがれ、「もう死ぬし かないのか」というような失意のどん底から這い上がり、命がけで踊 り始めた。どうせ死ぬ命なら、ダンスによる過労で死のう。 始めたころは、慣れないダンスなのに真冬に命がけで取り組んでいた ため、膝を痛め、インフルエンザにほとんど常に罹っていた。外科と 内科には、週に二回くらい、通院。膝と腕に注射ばかり。薬を飲み湿 布を貼り、足底板(そくていばん)という特殊な器具を医者から処方 されながら、激しく踊り続けた。体を壊して二度と踊れなくなるかも しれない。それでもいいと思った。あまりに激しく踊るので、最初の 数ヶ月は、どのクラブやディスコで踊っても、警備員から呼び止めら れる。「周りの人に迷惑がかかるから、もっと大人しく踊ってくださ い」私が本気で踊ると、5メートル四方、10メートル四方を占拠してし まう。 一年くらいかけてやっと、人に迷惑がかからず自分の体をも痛めない 踊り方ができるようになる。そんな中、私の傷ついた心も、いつしか 癒えていた。数年来の心の傷のみならず、幼いころからのトラウマさ え消えていた。 少しお酒を飲んで、美しくテンポの速い音楽に合わせて、滝のように 汗をかき、腰が砕けるかと思うまで踊ると、天にも昇るような至福。 大阪ミナミのクラブやディスコに行って、あらゆる国籍の20代の若者 たちと朝まで6時間、ほとんど休みなく踊り狂うと、すべての人々と一 体になったかのような気分。「梵我一如」(ぼんがいちにょ)という か、宇宙と合一したかのような自分を感じるのです。そういう意味 で、私にとっての音楽やダンスは単なる趣味ではなく、それはまさに 宗教であり哲学であり、生きることそのもの。 踊っていると、いろんな国籍の若い男女が近づき、握手を求めてく る。「あなたを見てると、楽しい」そう言ってくれる。私が自分の幸 せを追求するとき、人を傷つけたり不愉快にさせてしまうのではない かとついつい心配になりますが、ダンスにおいてはそういうことはな さそうだと思い、とてもラッキー。 「明日、死んでも悔いはない」と思えるくらいの感動をたびたび体験 し、生まれて初めて、人生の醍醐味を堪能。これが、私にとっての 「生きる意味」。 何に生きる意味を感じているか、そういう生き様が、翻訳者だけでな くすべての職業人の仕事ぶりに反映されるでしょう。生きがいを感じ ている翻訳者は、よい翻訳者になれるはずです。私自身は、決して優 秀な翻訳者ではありません。でも、せめて溌剌と生きる翻訳者であり たいと思っています。溌剌と生きるためには、自分の好きなことや信 じることのためには死ぬことをも厭わないという覚悟で生きていきた いと思います。「生きる意味というは、死ぬことと見つけたり」 (終わり) |
生きる意味というは、死ぬことと見つけたり (その1) | 南都隆幸 email Web | 1469 | 4/8-17:51 |
「年齢と共に生きる意味が見出しにくくなってきた」というコメント
がお二人から寄せられました。とても正直な心情の吐露であるこのよ うなコメントを読むと、私はうれしくなります。嘘がないのです。こ ういう思いをひたすら隠したり、他の人がそのようなことを言ってい る時に、やたらにそれを嫌がったり攻撃したりする人がいます。私に 言わせれば、人間はみんな、強い(と自他共に思われている)人も、 弱い(と自他共に認められている)人も、頻度や程度の差こそあれ、 「生きる意味が見出しにくい」と感じているのだと思います。そして そういう思いは、誤魔化さない方がよいと思います。そういう自分を すんなり受け入れて、それを自分の人生の土台に据えた方が、自分と 他人に優しくなれ、人間や社会を大きく深い立場から見られると思い ます。 「生きる意味」というものは初めからなくて、生きることそのものは 実はまったく無意味なのだという立場があります。あるいは、大きな 意味があるという立場もあります。そして、生きる意味は自分で作り 出すものだという立場もあります。 17歳のころからこういう問題に取り組んでいた私は、49歳くらいにな って、やっと私は、この問題には悩まされなくなりました。とは言っ ても、「生きる意味がある」つまり「この宇宙の外にある何か偉大な ものが私たちの生きる意味を作り出している」とは思っていません。 もしかしたら、生きることには客観的かつ普遍的な意味はまるでない かもしれないと思っています。でも、かつての私とは違って、生きる ことにそのような意味があろうがなかろうが、私自身にとってはどう でもいいのです。 今の私にとって重要なことは、「生きることを楽しいと感じている」 という事実です。幸いにして私は、51歳の今でも、両足で立ってい る。それほど病院の世話にならずに生きていくことができる。ありが たいことです。その他の点でどんな不運があろうと、私には「両足で 立てる」ということだけでも、大きな祝福です。事故のために65歳の ときから歩くことが不自由になった身体障害者の母を見ていて、特に そう感じます。 「生きる意味」については、今の私は、実に単純に、こう考えていま す。そのためなら死ねる、と思えるようなものを持っていれば、その 人は生きる意味を感じている。 1年6ヶ月ほど前、私は音楽とダンスに凝り始めました。テンポの速い アメリカのポップ音楽に合わせて、ストリートダンスみたいなものを 踊るのです。若いときからダンスは好きだったはずなのですが、「ま ずは手に職をつけないといけない」という使命感があまりにも強く て、人生を楽しんでいる場合ではないと思っていました。それに、か なり悲観的な人生観や世界観を持っていましたので、人生を楽しむな どという発想は、初めからありませんでした。若いころの私は、ただ ひたすら勉強して仕事して、苦行することに悲壮な、捻じ曲がった喜 びを感じていました。 50歳になったときから、やっと「僕にだって人生を楽しむ権利があ る」と思えるようになり、音楽とダンスを心から楽しむようになりま した。おかげで、「明日、死んでも悔いはない」と文字通りに思える 恍惚の瞬間をときどき経験します。 (その2に続く) |
私からも感謝 | chima | 1468 | 4/8-07:50 |
記事番号1466へのコメント 南都さん、おぺらさん、よいお話、ありがとうございました。
おぺらさんと同じく、私も生きる意味を見つけるのが年を追うごとに難し くなっ ています。 私は数年前にこのBBSで南都さんとお話させて頂いたことがあります。 (その節は有り難うございました。) あの頃は私も翻訳に情熱を持っていたのに、今はその情熱を失い、 翻訳とは関係のない仕事をしています。 自分が思い描いた人生とは全く別の方向へ進んでいるような気がします。 話は変わりますが、おぺらさんの「自分にも他人にも嘘をつかない」 という文を見て、私の好きなintegrityという単語が頭に浮かびました。 (英語で"He is a man of integrity"などと言いますよね。) 私も a person of integrity になれるよう、精進したいと思います。 とりとめのない文章ですみません。 |
Re:喪失のあとの爽快感 | サムライ Web | 1467 | 4/6-20:28 |
記事番号1465へのコメント おぺらさんの投稿を拝読し、「諸行無常」という仏教の教義の一つが、ふ
と脳裏に浮かびました。私も二人の息子(中学生)を持つだけに、おぺら さんが最愛の我が子に先立たれた時のお気持ち、察するに余りあるものが あります。それだけに、おぺらさんの淡々とした文章の中に、お人柄が偲 ばれるような気がしたものです。よいお話、どうもありがとうございま した。 また、南都隆幸さんやピヨピヨさんの投稿も楽しみにしております。 サムライ拝 |
生かされて感謝 | 南都隆幸 email Web | 1466 | 4/6-20:23 |
記事番号1465へのコメント >自分の人生は自分が努力すればどのようにでも開けると思っていまし
た。「なりたい自分」には必ずなれると思っていました。(中略) 「生かされている部分」っていうのも、大きいんじゃないかって。 ======= わかるような気がします。本当は「よ〜くわかります」って言いたい ところなんですが、そう言ってしまうと、「何を言うか。私の体験は 私特有のものであって、あなたのものとはまるで違うはずだ。だか ら、よくわかるなんて言うな」というふうな反応が返ってくるかもし れないので、「わかるような気がします」というコメントで抑えてい ます。 ほんと、人それぞれであって、他の人のことっていうのは、たとえ数 十年にわたって一緒に生きてきた相手のことさえ、果たして「よくわ かる」なんてことが言えるのか、と叫びたくなります。だから私は、 決しておぺらさんのことを「よ〜くわかる」なんてことはないのだろ うと思 います。 ある程度に人生体験とか年齢を重ねた上で物を言うと、20歳くらい若 い人はよく「なぜ自分の人生を自分で切り開こうとしないのか」とか 何とか言われます。若いときにはやはり、多かれ少なかれ、自分の人 生は自分でどのようにでも切り開けるような気がしてしまうのです ね。 私は今、おぺらさんの言うように「生かされている」自分を深く感じ ています。そして、生かされているからこそ、ありがたいとも言えま すし、他の弱い人とか失敗した人を見る時に、 「この人たちも精一杯に自分の人生を切り開こうとしたけど、こうな ったのだ。そしてその人たちよりも僕の方が成功したように見える部 分があったとしても、それは僕の手柄じゃなくて、あくまでもっと大 きなエネルギーみたいなものに突き動かされてうまく行っただけのこ となんだ。そしておそらくは、あらゆる人は自分の持てるものを100% 生かしきったのだという意味で、まったく平等なのだ」 というふうに感じ、すべての人が愛おしくなります。今の私は、次の ように感じています。 僕みたいな人間をよくも今まで客先や親兄弟や友人や社会が支えてく れたもんだ。ありがたい。 そういうありがたい思いを謳歌しながら、第二の青春を楽しんでいま す。最後になりましたが、「爽快感」なんていう言葉を使ってしまっ て、ちょっとお恥ずかしいです。不適当でしたね。どうも言葉の感覚 が鈍くて、ついつい変な言葉を口走ってしまいます。 僕はもともと芸術というものを深く尊重していたつもりでしたが、50 歳になった2年前あたりに、生まれて初めてと言っていいくらいに、芸 術や、この世の美しいものを深く感じることができるようになりまし た。その主な理由は、やはり生きていることのありがたさと美しさを 深く感じられるようになり、生きていることを生まれて初めて楽しめ るようになったからだと思います。 |
Re:喪失のあとの爽快感 | おぺら | 1465 | 4/6-16:16 |
記事番号1462へのコメント 言葉の感覚にもよりますが、「爽快感」とは少し違うかな。
「投げやり」とは違う「諦め」というか。 以前は、自分の人生は自分が努力すればどのようにでも開けると思って いました。「なりたい自分」には必ずなれると思っていました。 でも、気づいたんです。結局は、「生かされている部分」っていうの も、大きいんじゃないかって。その中で生きる意味を見つけるのが、年 を追うごとにどんどん難しくなっている感じです。 もし子供を亡くさなくても、この感覚は、ひょっとしたら同じだったか もしれないと思う。 私の中で今のところひとつ残った真理は、自分にも他人にも嘘をつかな いということが、納得できる人生を送るためのキーワードではないかと いうことです。翻訳であれば、常に嘘をつかない仕事を納品する、とい うことですね。 難しいけど(^^) |
恥ずかしさ | 南都隆幸 email Web | 1464 | 4/6-13:44 |
記事番号1463へのコメント ピヨピヨさん
>>> 恥ずかしい気持ちになっています。 ========= 私も年がら年中、公の場でも恥ずかしい思いをしていますが、恥ずか しい思いというのはとても大事だと思いますし、単に恥ずかしいと思 うだけでなく、「恥ずかしい」のだということをみんなの前で認める ことは、もっと大事なことだと思っています。「恥ずかしい」と仰っ ているピヨピヨさんのコメントを読んで、ピヨピヨさんはとても誠実 で真面目で人間らしい方に違いないと思いました。 ピヨピヨさんは大変な実力を持った方ですので、ぜひこれからもいろ いろと教えていただきたいと思っています。ピヨピヨさんが気の向い たときにフッと出される言葉が、私や他の人にとって、とてもよい刺 激になると思います。 |
Re:健康管理は楽しい(その2) | ピヨピヨ | 1463 | 4/6-11:36 |
記事番号1461へのコメント 不特定多数のいろんな方がこのサイトを閲覧しているという事実が、
私の頭の中にはありませんでした・。恥ずかしい気持ちになっていま す。 視野が極端に狭くなっている自分に気付かされました・・・。 |
喪失のあとの爽快感 | 南都隆幸 email Web | 1462 | 4/4-16:32 |
記事番号1461へのコメント おぺらさん
>私は子供をひとり亡くしているのですが、その日から、自分も死ぬと いうことがまったく怖くなくなりました。(中略)それはそれですっ きりした気分で毎日人生を送っています。 ========= とてもいい話を伺いました。自分の命よりも大切にしていたものを失 うと、もちろん涙の谷を長いあいださ迷わないといけませんが、その あと不思議に、人生を達観して爽快な気分で生きていけることがよく あるみたいですね。 おぺらさんほどの大きな体験ではないにせよ、私も私なりの体験を経 たあと、そういうふうな爽快感を味わっています。そして、「そうか あ、人生って、それほど怖くない場所なんだな」と思うようになりま した。そのおかげもあって、私は「明日、死んでも悔いはない」と思 いながら毎日を暮らしていますが、同時に、「こんなにまで楽しい人 生なんだから、もし誰にも迷惑を掛けずに済むのなら、一日でも長く 生きたい」と思うようになりました。若いときには、むしろ早死にを 望んでいたのに、今ではその正反対です。 「文は人なり」と言いますから、「翻訳も人なり」と言えます。翻訳 者がどのように生きているか、どのような人生観を持っているか、ど んな思いで、どのように生き生きと生きているかという生き様がすべ て、翻訳したページの上に表れるのだと思います。いい翻訳をするた めにも、いい日常生活を送りたいと思っています。 南都隆幸 Takayuki Nanto |
Re:健康管理は楽しい(その2) | おぺら | 1461 | 4/4-06:29 |
記事番号1460へのコメント そうですね、ほんと人それぞれ。
私は子供をひとり亡くしているのですが、その日から、自分も死ぬとい うことがまったく怖くなくなりました。それまで、「健康であること」 を含め、仕事とか、お金で買える贅沢とか、いろんなことに欲があった のですが、それがスーッと抜けていった感じです。 今はその子以外の子供のために生活も仕事もがんばってますが、一応の 子育てが終わったら、いつお迎えが来てもいいというか、天国で亡くし た子に会えるので、表現は変ですがかえって楽しみにしているくらいで す。 自分で命を絶つということはしませんが、積極的な健康管理はまったく していません。病気が見つかれば、まあそれなりの治療はするでしょう ね。家族もそれを望むでしょうから。 でも、生き長らえたい、という欲はなくなり、それはそれですっきりし た気分で毎日人生を送っています。 なんだか重い話になってしまいましたが、こんな生き方もあるというこ とで。 |